【フジ子・ヘミング】左右の聴力障碍を乗り越えた魂のピアニスト奇蹟のカンパネラ、無国籍、母との確執

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投稿日:2024年5月4日 | 最終更新日:2024年5月4日

【フジ子・ヘミング】左右の聴力障碍を乗り越えた魂のピアニスト奇蹟のカンパネラ!家族と生い立ち

フジ子・ヘミングさんは1932年(昭和7年)12月5日、ロシア系スウェーデン人のフリッツ・ヨスタ・ゲオルギイ・ヘミングさんと日本人の大月投網子(おおつき とあこ)さんを両親としてドイツのベルリンで産まれました。その3年後弟のウルフさんが産まれています。

父のフリッツさんは貴族階級出身で画家であり、建築家です。フリッツさんがバウハウス(当時、工芸・写真・デザインなどを含む美術と建築に関する総合的な教育を行っていた学校)で学ぶためにドイツ留学していた時、同じくベルリン芸術大学で音楽を学んでいた投網子さんと出会い結婚しました。

昭和一桁の時代に海外に音楽留学をしていた投網子さんですが、投網子さんの祖父が日本初の工業用インクを発明し、会社を経営していたとのことで裕福な家庭の子女だった事がうかがえます。

そして第2次世界大戦が勃発しヒトラーが台頭してきた頃、ヘミング家は日本へ移住します。フジ子・ヘミングさん5歳の頃でした。

しかし日本に移住したものの、早々に父フリッツさんと母投網子さんの結婚生活は破綻してしまったようです。KYOUTO JOURNALの記事では家庭内暴力、浮気、祖国への郷愁などからフリッツさんは家族を日本に残し帰国してしまった、としています。しかしフジ子・ヘミングさんの著書「永遠の今」にはフリッツさんが日本を風刺した漫画を描いたため、特別高等警察に目をつけられ強制送還させられたとの記載があるようです。

どちらの記事が正解かはわかりませんが日本に来たもののじきにフリッツさんは祖国スウェーデンに帰国してしまった事は間違いないようです。

それ以降母、大月投網子さんがピアノ教師をしながら女手ひとつでフジ子・ヘミングさんと弟を育てました。

投網子さんの両親は彼女にわずかな小遣い程度の金を渡してくれるのみだった為、子ども達を養う為に投網子さんはピアノ教師をして稼がなくてはなりませんでした。そしてそのストレス解消はフジ子・ヘミングさんへ向かってしまっていたようです。

【フジ子・ヘミング】左右の聴力障碍を乗り越えた魂のピアニスト奇蹟のカンパネラ!ピアノと母投網子との確執

母投網子さんは6歳頃からフジ子・ヘミングさんへピアノを教え始めたようです。始めたばかりの頃から2時間のレッスンを毎日2~3回行いました。6歳と言えば今でいえば小学校に上がるか上がらないかの年齢です。その年齢で2時間のピアノレッスンをそれも日に2、3回受け続けるのは相当困難な事かと思います。最初はピアノの紡ぎ出す美しい音色の世界に魅了されていたフジ子・ヘミングさんですが母投網子さんの容赦のない批判と執拗な指導に、じきに気持ちがしぼんでいってしましました。

フジ子・ヘミングさんはピアノの鍵盤に触れない為に服を破る、叫ぶ、バスルームに閉じこもるなど様々な手段で抵抗しました。

そして母投網子さんがピアノの先生として外出する時、弾く事を許されなかった楽譜を引っ張り出して大好きな曲を演奏することが唯一の息抜きだったそうです。

フジ子・ヘミングさんは子どもの頃から母投網子さんが亡くなるまで、褒められた記憶は一度もないそう。

しかしそれでも娘フジ子・ヘミングさんに本物の音楽を学ばせたいという情熱は人一倍大きかったそうで、戦前から世界的なピアニストだったレオニード・クロイツァー氏(当時東京藝術大学教授)に9歳のフジ子・ヘミングさんの演奏を一度でいいからき聞いて欲しいと頼み込み、実際に聞かせること成功しています。そしてその結果クロイツァー氏はフジ子・ヘミングさんの演奏を絶賛し、レッスンを無料で行うとまで宣言しています。

投網子さんはその他にも生活は苦しかったはずなのにフジ子・ヘミングさんを東京藝大に入学させたり、ドイツ留学では月100ドルの仕送りもしてくれていたそうです。

しか東京藝大への進学の際には「あんたが演奏してるのは”音楽”じゃない!」などという強い言葉を怒りと共にぶつけられたり、ドイツへの仕送りの際には「あんたが私の送った金を浪費している間、ここで私は塩をなめている!」などの手紙が添えられていたそうです。

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