両耳へ襲い来る障がい、母との確執、無国籍、貧困、様々な困難でも決して失われることのなかった奇跡の音色。2024年4月21日に92歳すい臓がんで永眠したピアニストフジ子・ヘミングさんの生涯について調べてみた。
【フジ子・ヘミング】左右の聴力障碍を乗り越えた魂のピアニスト奇蹟のカンパネラ!プロフィール
氏名 | フジ子・ヘミング(ふじこ・ヘミング) |
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出生名 | ゲオルギー・ヘミング・イングリット・フジコ(Georgii-Hemming Ingrid Fuzjko) |
生年月日 | 1932年(昭和7年)12月5日 |
没年月日 | 2024(令和6年)年4月21日(92歳) |
出身地 | ベルリン |
最終学歴 | 東京藝術大学卒業 ベルリン国立音楽学校卒業 |
アルバム | 奇蹟のカンパネラ (1999年8月25日、2005年12月16日) 永久(とわ)への響き/Echoes of Eternity (2000年4月5日) 憂愁のノクターン(2000年8月3日) フジコ・ヘミング/COLORS All Time Best Album 1973-2021(2021年10月20日) フジコ・ヘミング/魂の響き~フジコ・ヘミングの世界~(2023年2月22日) フジコ・ヘミング/マリオ・コシック「Adagio」(2023年4月14日) 他多数 |
書籍 | 『フジ子・ヘミング 運命の力』 阪急コミュニケーションズ(2001年) 『フジコ・ヘミング 魂のピアニスト(新潮文庫)』新潮社(2008年) 『フジコ・ヘミング14歳の夏休み絵日記』暮しの手帖社(2018年) 他多数 |
著名な親族 | 大月ウルフ(俳優/弟)、橋本潮(歌手/従姪) |
【フジ子・ヘミング】左右の聴力障碍を乗り越えた魂のピアニスト奇蹟のカンパネラ!10代で右耳の聴覚消失
フジ子・ヘミングさんは16歳頃に右耳の聴覚を失っています。
戦後間もない頃、冬の寒さが厳しく風邪が流行し多くの日本人が罹患したようです。フジ子・ヘミングさんもそのうちの一人でした。
”Fujiko, joints stiff, woke one morning with a fever. Sneezes racked her body, but instead of loosening the congestion behind her nose, they wrung out what little strength the fever hadn’t made off with. Doctors were few and far between; antibiotics, a black market luxury. Fujiko burrowed under her blankets, soaking her bed in sweat, hoping to grind the fever down.”
フジ子はある朝発熱と共に関節の強張りを感じた。くしゃみが出たが鼻の奥の鼻詰まりは解消せず、むしろわずかに残っていた体力さえも搾り取られた。その当時医者はほとんどおらず、抗生物質は闇市でしか手に入らない贅沢品だった。フジ子は毛布に潜り込み吹き出る汗で寝床をびしょ濡れにしながら、熱が下がる事を祈っていた。
KYOTO JOURNAL October 26,2011「Fujiko Hemming, Deaf Pianist」https://www.kyotojournal.org/culture-arts/the-silence-before-the-cadenza-fujiko-hemming-pianist/
当時は栄養状況も良くなく、治療薬すらままならず眠る事でしか養生しようがなかったと思います。
熱は数日続いたようです。そして熱が下がった時フジ子・ヘミングさんの右耳は聞こえなくなっていました。風邪から中耳炎を併発してしまっていたのかもしれません。
演奏してもかつての音楽とまるで違ってしまっている事実にフジ子・ヘミングさんは打ちのめされました。
しかし彼女はピアノを諦めませんでした。
フジ子・ヘミングさんは何週間もピアノと向き合い、その指に感覚を集中させ熱が奪い去った音を鍵盤の上で探し求めました。
その結果、彼女は以前よりも豊かな音色を表現することができるようになっていました。
そして17歳、フジ子・ヘミングさんはピアニストとして舞台デビューを果たしています。その後はNHKと毎日新聞社主催の全国コンクールで準優勝し、文化放送協会最優秀賞を獲得ました。
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