《東海林のり子、BLにハマる!》現在は?右肩骨折!ロックの母!米寿でもまだまだ現役!

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投稿日:2022年11月29日 | 最終更新日:2022年12月1日

XJAPANでロックにはまり、70代でTwitterをたしなみ80代でBLにハマる。87歳で右肩骨折。88歳米寿を迎えてもまだまだその滑舌は衰える事を知らず元気いっぱい。東海林のり子さんについて調べてみた。

東海林のり子

ワイドショーのリポーターとして日本全国を飛び回った日本の事件&芸能リポーター。もともとはニッポン放送アナウンサーだったがその後フリーアナウンサーに転身。子育て中の40歳頃からリポーターとして活躍し始めた

ロックバンドの熱狂的なファンとして有名。ロックの母(ロッキンママ)の異名を持ち「バンドのライブを観に行くことが、私にとって若さと健康の秘訣」と豪語している

  • 本名:東海林のり子(しょうじ のりこ)
  • 生年月日:1934年5月26日
  • 出身地:埼玉県浦和市
  • 血液型:A型
  • 「現場の東海林です!」「以上、現場から東海林がお伝えしました」

    のフレーズで有名な東海林のり子さんですが、実は実際にワイドショーの事件リポートの際につかわれていたわけではないんです。

    実は1984年から1990年に放映されていた番組『いただきます』内のコーナーで、東海林のり子さんが架空の事件をリポートをする際に使われていたフレーズだったんです。

    かつてのお昼の化け物番組「笑っていいとも」の後の時間帯であった事もあり、視聴率もなかなかだった番組内の名物コーナーで使われるフレーズがいつのまにか浸透し、東海林のり子さんのイメージとして定着しました。

    そんな東海林のり子さんについていろいろ調べてみました。

    《東海林のり子、BLにハマる!》右肩骨折!それでも元気!

    米寿(88歳)を迎えまだまだ滑舌衰えず、Twitterをたしなみまったく年齢を感じさせない東海林のり子さんですが、実は2021年12月87歳の時、転倒から右肩骨折をされています。

    右肩骨折して不自由してると言いながら、Twitterを元気に更新されてますね。アイコンの写真がまた元気さをこれでもかとアピールしまくってます。

    骨折していたのならギプス固定などして右腕使いにくかったでしょうに…。元気すぎる。

    ちなみに骨折の際のリハビリでは20代のマスクイケメン理学療法師さん達にときめいていたようです。医師からの「東海林さんもう骨くっついてるからリハビリは終わりにしては?」の提案に「まだまだやります!」と返事をしたとのこと。医師からは「治っても前のように手は上がりません」と言われていたようですが、イケメン理学療法士さん達に励まされリハビリを頑張った結果、元の位置まで腕は上がるようになったようです。

    ときめきを忘れない。それこそが若さの秘訣。

    転んでもただでは起きないそのバイタリティ素敵すぎます。

    《東海林のり子、BLにハマる!》88歳、池袋BLカフェでルンルン

    東海林のり子さんがBL(ボーイズラブ)にハマっているという情報もTwitter上にあがっています。きっかけは視聴していたタイの男性同士の恋愛ドラマ。最初は驚いたとのことですが完全に「沼落ち」したようで、そこからBLに目覚められたのではと思われます。

    東海林のり子さんは番組内でBL小説を購入した後、池袋のBLカフェで楽しまれている姿を披露されていたようです。BL愛好家の方々から共感及び親近感を感じる感想がTwitterにあげられています。

    《東海林のり子、BLにハマる!》ロッキンママ!ビジュアル系バンド大好き!出会いはXJAPANのTOSHI

    「自分で『X(JAPAN)のおっかけリポーターの東海林です』ていってたのよ。」とエッセイコミック『バンギャルちゃんの日常』(蟹めんま著)の発売記念対談で語るほど熱狂的なXJapanのファンである事が知られている東海林のり子さん。

    X JAPANの他、LUNA SEA、GLAY、ペニシリンなどのロックバンド、ビジュアル系ロックバンドの熱狂的なファンであり、ロック音楽にも造詣が深いとのこと。

    ロックとの出会いはXJapanからのようです。

    XJapanとの出会いはXJapan(当時はX)のボーカルTOSHIさんのラジオ番組、X TOSHIのオールナイトニッポンに出演したのがきっかけだったとのこと。

    それまでは日本のロックは聞いたことがなかった東海林のり子さんでしたが、出演をオファーされたとき娘さんから「(Xは)すごい格好してるから! 怖いのよ!」と言われ

    「そうか、それは面白そうだから行ってみようかな」

    と出演を決めたそうです。

    さすがです。その好奇心こそがまさしく東海林のり子を東海林のり子たらしめたスピリット。

    実際にラジオの収録に行ってみると実際にはTOSHIさんはとても礼儀正しい人物で、外で待っているファンの子達のエネルギーも物凄く、それでXに興味を持ったとのことです。

    その後、当時東海林のり子さんがレポーターをしていたワイドショー番組『おはよう!ナイスデイ』に「Xを取材したい」と提案します。しかし最初番組側からは「ワイドショーを観てる奥様はロックを拒否するんじゃないか」と否定的な反応が返ってきたようです。

    それでも粘り強く「Xは面白いし、ファンの子も礼儀正しいし絶対に取材したい」と交渉し取材が実現したとのこと。その当時東海林のり子さんは「(Xのことを)わかってもらいたい」という熱い情熱だけで行動していたようです。

    結果視聴率もそこそこな数字を取れたようで、Xファンの女性たちからも多くの感想をもらったそう。また、そのファンの女性たちからの手紙もひとりひとりしっかりしていている事に感心し、ファンの女性たちとも交流を始めたとのこと。悩み相談まで受けていたようです。

    現場にこそ事実がある。事件レポーター《東海林のり子》

    男性社会の中で戦ってきたキャリアウーマン東海林のり子

    東海林のり子さんがワイドショーのリポーターをやっていた頃、事件モノは男性の仕事という風潮がまだまだ根強い時代でした。新聞記者もテレビ局のリポーターもほとんどが男性で取材内容を皆で共有するような談合社会だったそうです。その中で女性である東海林のり子さんは認められる事がなかったと振り返っています。

    事件現場に行っても男性同士で集まって東海林のり子さんを一瞥するだけで、現場に遅れて行こうものならあからさまに「女が来たよ」という態度をとられたそうです。

    しかし逆にそのことが東海林のり子さんに「絶対に負けちゃいけない」とパワーを与えた結果になったようです。

    諦めの早い「男性」、主婦力で情報を勝ち取っていった東海林のり子

    男性にハブにされ、独自で取材、リポートを続けていた東海林のり子さんですが、そのうちに男性取材陣のある特徴に気づきます。

    「男性は諦めが早い」

    事件の取材をしていても男性はこれ以上情報を得られないと見切りをつけるのが早く、すぐに帰ってしまう事に気が付いた東海林のり子さんは男性陣が帰った後、再び自身は現場に戻って井戸端会議をはじめた主婦たちに取材をし情報を得る事に成功していきました。

    まさしくそれは女性だから、主婦だからこそできた取材。男性にはできない取材だったことは容易に想像ができます。また女性や主婦の噂話の情報量の多さ、価値は計り知れないものだったと思います。

    こうして東海林のり子さんは唯一無二のリポーターとしての地位を確立していきました。

    数々の陰惨な事件現場で。事件リポーター《東海林のり子》

    東海林のり子さんが事件リポーターをしていた頃、数々の陰惨な事件が発生しています。

    それらの取材に対しての東海林のり子さんの思いに「東海林のり子」という人間性を垣間見る事ができます。東海林のり子さんが女性でありながら、数多の男性リポーターがなれなかった、唯一無二の地位を確立できたのはその人間性があったからだと思います。

    誰よりも早く現場へ行き、くまなく情報を拾い上げる

    1980年11月『金属バット両親殺人事件』。父は東大生、母は東京女子大、兄は早稲田大学卒業という高学歴一家で唯一エリートになれなかった二浪中の次男が両親を金属バットで殺害すという凄惨な事件が発生しました。

    その事件で東海林のり子さんは現場に一番のりします。他局の撮影クルーはまだ到着せず、警察による規制線も張られていない現場で東海林のり子さんは家の周りを散策することで事件現場となったと思われる部屋のカーテンにまるで水玉模様のようにおびただしい血痕が付着していることに気が付きました。

    この経験で東海林のり子さんはある事実に気づきます。

    「―いち早く現場に到着すれば、誰も知らない発見ができる。」

    遠くから見ているのでは気づかない、近くで見るからこそ発見できるものがあること。現地への到着が遅れれば遅れるだけ情報は失われてしまう。その事実を体感したのが、この『金属バット両親殺人事件』でした。

    見せるもの、見せないもの、その線引きは優しさ。東海林のり子の人間力

    しかし、その「おびただしい血痕のついたカーテン」をリポートすることは東海林のり子さんはしませんでした。

    なぜならば視聴者は事件の凶器は金属バットである事を知っており、その事件の生々しい痕跡の証拠である血痕で水玉模様をなしたカーテンを映像として写すことはあまりにも残酷で亡くなった方に失礼だと思ったから。

    東海林のり子さんはそう判断をしたことを今でも正しかったと思っている、とインタビューの中で述懐しています。

    東海林のり子さんは映すべきもの、あえて映さないものの線引きをどこでするのかという問いにこう答えています。

    「それは《優しさ》だと思う」

    例えば子どもが虐待されて殺された事件があったとすれば、庭に放置されているブランコや三輪車、縁側に転がる小さなゴム草履、そういったものを映すことで視聴者は「こんな小さな子が殺されたのか」とイメージがしやすくなるけどもそれは優しさに欠けるのではないのかと。

    しかしアルコール中毒で家族にさんざん迷惑をかけた父親を息子が殺してしまった事件が発生した時、自宅の裏に山のように積まれた焼酎や日本酒の瓶は映すべきだと、なぜならばそれを映す事で罪を犯さざるを得なかった息子の苦悩が見えてくるかもしれないから。東海林のり子さんは自身の線引きについてのそのように答えています。

    数々の凄惨な事件のリポート

    その他にも80年代には少年院を出たり入ったりしていた少年が、そこで知り合った仲間と共に新聞集金人を装い元交際相手の母親、元交際相手、妹をを牛刀でめった刺しにして殺害した『藤沢母娘殺人事件』。

    4人の不良少年が17歳の自女子高生を拉致し40日間にわたり監禁、集団リンチの果てに殺害し、遺体をコンクリート詰めにし空地に遺棄した『女子高生コンクリート詰め殺人事件』。

    4人の幼女が誘拐、殺害された『宮崎勤事件』など、数々の陰惨で残虐な事件が発生しました。そのすべてを東海林のり子さんは取材し、リポートしています。

    『藤沢母娘殺人事件』では「なぜこのような人間が育ったのか」という疑問から犯人の母親に話をどうしても聞きたかったという東海林のり子さん。インタビューを受けてもらう為に手紙をだしたり、物を届けたり何度も訪問するなど根気よく依頼し、カメラなしでのインタビュー、その後カメラ有でのインタビューまでも実現させました。

    『宮崎勤事件』

    連続幼女誘拐、殺害事件『宮崎勤事件』で東海林のり子さんは事件に巻き込まれてもいます。

    犯人を名乗る人物から「女の子はオレが連れている。東海林のり子に引き渡したい」と名指しで指名されたのです。

    捜査一課からは東海林のり子さんの代わりに婦人警官にやり取りをさせるとの提案がありましたが、テレビを通じて犯人が東海林のり子さんの声を知っている事を考慮してその申し出を断り犯人とのやり取りを実際に行っています。

    犯人から電話で『東京駅の中央口に身代金を持って、東海林さん一人で来い』と言われたとき、警察官からは「行くと言え」とメモをだされましたが、東海林のり子さんは「私には主人も子どもいます。そんな簡単には行けません」と答えてしまいます。

    警官には怒られたようですが、結果犯人との通話でのやり取りの時間が長引き警察は逆探知に成功し犯人の取り押さえに成功しています。

    この犯人は実際には誘拐犯ではなく事件に便乗した愉快犯でした。

    ネットによるいわれなき誹謗中傷「10万人の宮崎勤」

    この『宮崎勤事件』について東海林のり子さんはデマによる誹謗中傷の被害も受けています。

    宮崎勤が逮捕された直後のコミックマーケット、通称コミケの会場で東海林のり子さんが「ここに10万人の宮崎勤がいます!」とリポートしたという根も葉もない噂がインターネット上で拡散されたのです。

    東海林のり子さんはコミックマーケットに行ったこともないと言っています。しかしインターネットで文字として拡散されると、読んだ人は噂を信じてしまい、未だにその噂はネットの海で拡散されたままの状況が続いているようです。

    リポートの限界を感じた阪神淡路大震災。事件リポーター《東海林のり子》引退

    「果てしない瓦礫の山を目の当たりにし、おびただしい数の棺が運ばれていく様子をこの目で見ました。そうした光景を、一生懸命リポートしました。でも、どんな言葉を添えようとも、どれだけの言葉を費やそうとも、この惨事のすべてを伝えることはできないんだ……。そう、気づかされたんです」

    数々の悲惨な現場を取材してきた東海林のり子さんですが、1995年1月17日5時46分52秒に発生した大災害、阪神淡路大震災の現場に立ったこのとき初めてテレビの限界を感じたといいます。

    どんな事件、どんな事故でも真摯に向き合ってきたという自負はあった東海林のり子さん。しかし阪神淡路大震災の現場を経験し、もうこれ以上悲惨なことに出会うことはないだろうという思いが芽生えたといいます。

    自分たちの伝えられる事、テレビはいったい何ができるのか?という疑問。

    そして東海林のり子さんは事件リポーターを引退するという決断をしました。

    現在のワイドショー、この先のワイドショー。「絵が見えない」テレビ

    「昔のワイドショーは、ニュース番組、報道局、報道記者たちが見落としたこと、掬いきれないことを埋めていたと思うんです。だから、私たちリポーターは現場に行って、彼らが見落としたものを一生懸命リポートしました。でも、今はテレビなのに画(え)が見えないでしょ……」  

    現在のワイドショーは現場からのリポートはあまりなく、スタジオでパネルを使用し事件の解説をするのが主流となっています。東海林のり子さんはそれに納得できないといいます。現場に行ってその実際の場面をリポーターが見て伝える事により熱く事実を伝える事ができる、その熱量がないことを東海林のり子さんは憂いています。

    この先のワイドショーの未来について東海林のり子さんは次のように述べています。

    「私、この先、ワイドショーはなくなると思うの。だって今の番組は真剣じゃないから。これからはもっと真剣な番組が出てくると思うんです。この先、どんな番組が登場するのか? テレビはどうなっていくのか? それはやっぱり、現場で見てみたいという思いは強くありますね」

    事件リポーター《東海林のり子》現在とまとめ

    東海林のり子さんは講演依頼.comに登録はある状態ですが、現在は特に講演の予定はないようです。1年程前まではYouTube配信などもされていたようですが、今はTwitter更新のみでたまにテレビなどにゲスト出演される生活をされているようです。

    そしてまた東海林のり子さんは88歳になられた今でもロックを愛し、新しい趣味BLを楽しみ、素敵なものに素直にときめくパワフルな生活を送られているようです。

    東海林のり子さんは女性という立場で男社会であった報道の分野に果敢に挑戦し、その熱い正義感と情熱と、女性ならではの細かな視点で「事件リポーター東海林のり子」という確固たる地位を築かれたパワフルな女性でした。

    今後もまだまだお元気な姿が拝見できそうです。

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