《アントニオ猪木》湾岸戦争で人質解放!外務省の妨害、フセイン大統領の息子と交渉、その時なにがあったのか

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投稿日:2022年12月5日 | 最終更新日:2022年12月5日

湾岸戦争で全人質解放の英雄。外務省からの妨害、「平和とスポーツの祭典」、残虐なフセイン大統領の息子ウダイとの交渉、心強い協力者。その時何が起こっていたのか。湾岸戦争勃発直前に全人質を解放させたアントニオ猪木偉業まとめ

「私たちは口先ばかりの人より、猪木さんのように行動を起こす人を信じます」

イラクのクウェート侵攻に端を発した湾岸戦争に至る過程で日本人41人が実質人質としてクウェートからイラクへ連行され国外移動を禁止されました。

政府間の人質解放交渉が難航する中、誰も実際には動かない事に痺れを切らしたアントニオ猪木さんが単身イラクに乗り込みます。

その事について「スタンドプレー」「プロレスラー上がりに何ができる」などの批判が起こりました。

政治家からも「イラクにいる邦人全員が帰ってくるわけではないし、世界全体の政治を変えるという観点からすれば影響力はゼロに等しい」などの声があがりました。

そんな状況の中、人質となってしまった人たちの家族で構成された「あやめ会」の会長、長谷川悠紀子さんから発せられたのが上記の言葉でした。

《アントニオ猪木》湾岸戦争で人質解放!外務省の妨害、フセイン大統領の息子と交渉、その時なにがあったのか

なぜアントニオ猪木さんは湾岸戦争勃発直前の緊張感高まるクウェートへ単独で乗り込んだのでしょうか?

その問いにアントニオ猪木さんはこう答えています。

だって誰も行く人がいないんだもん(苦笑)。日本人だけじゃなくて外国人も誰もイラクに行かない。国会議員のやることは、国会で手を挙げて採決に加わるだけじゃないでしょう。俺の理念として「国会議員はそういうものだ」と思ってたんで、誰も(人質救出という)大役をやらないから「俺が行くしかないじゃん」と。

この何とも言えない明朗快活さ。そしてまっすぐさ。

これこそがアントニオ猪木さんが多くの人に愛される理由なんでしょうね。

アントニオ猪木

かつての日本の英雄的プロレスラー、新日本プロレスを旗揚げした。引退後は政治家として「スポーツ平和党」「日本を元気にする会」など精力的に活動していた。

湾岸戦争の際には人質としてクウェートからイラクに連行された41人の日本人の解放を実現した。

  • 本名:猪木 寛至(いのき かんじ)
  • キャッチフレーズ:燃える闘魂
  • 生年月日:1943年2月20日
  • 没年月日:2022年10月1日(79歳没)
  • 出身地:神奈川県横浜市鶴見区
  • 身長:191㎝
  • 結婚歴:4回(2回目の結婚は女優の倍賞美津子と)
  • 《アントニオ猪木》湾岸戦争で人質解放!イラク「人間の盾」どんな事件だったのか?

    概要

    1990年8月2日、突然イラクがクウェートを侵攻。イラクはクウェートから脱出できなかった外国人をイラク国内へ強制連行し「人間の盾」として軍事施設や政府施設などに監禁した。

    「人間の盾」には日本人41人も含まれていた。この非人道的な行為は世界各国から大きな批判を浴びた。

    日本人の人質解放について政府間の交渉が難航する中、要人が誰一人イラクへ行かないことに痺れを切らしたアントニオ猪木が独自でイラクへ渡航、イラク要人と交渉を行なった。

    交渉相手にはフセイン大統領の息子ウダイもいた。

    ウダイは当時スポーツ担当大臣だった。アントニオ猪木はウダイと交渉しイラクでイベント『スポーツと平和の祭典』を行う事を実現した。

    この『スポーツと平和の祭典』の実施がきっかけとなり人質全員が解放された。

    《アントニオ猪木》湾岸戦争で人質解放!『スポーツと平和の祭典』とはどんなイベントだったのか

    湾岸戦争勃発直前で緊張の高まるイラクで行われた『スポーツと平和の祭典』とはどのようなものだったのでしょうか?

    『スポーツと平和の祭典』では

    • ロックコンサート
    • 日本の大太鼓をはじめとする伝統芸能の披露
    • 空手トーナメント
    • プロレス

    などが行われたようです。『スポーツと平和の祭典』は日本人人質を中心に人質被害者家族とイラク人観衆が会場を中心に向き合う形で行われたとの事。

    イベント『スポーツと平和の祭典』は無事成功裏に終わりました。しかしイベント中の家族の面談は許されていましたが、この時点ではまだ人質解放には至っていませんでした。

    《アントニオ猪木》湾岸戦争で人質解放!なぜアントニオ猪木はただの一議員でありながら人質解放の立役者となれたのか

    『スポーツと平和の祭典』終了時点では人質解放には至らず、実質的な成果はない状態で帰国するべくチャーター便に荷物をチェックインした時、猪木さんに突如イラク政府から「大統領から話がある」と連絡が入りました。

    そしてアントニオ猪木さんは急遽飛行機を降りフセイン大統領と会談をおこないました。

    この結果、12月5日在留邦人の解放の決定、7日には人質全員の解放が決定しました。

    なぜ総理大臣でもなく政府要職についていた訳でもない、たかが一議員のアントニオ猪木さんがこのような偉業を成し遂げる事ができたのでしょうか?

    《アントニオ猪木》湾岸戦争で人質解放!プロレスラーとしての偉業、アントニオ猪木にしかなしえなかった「猪木外交」

    実はアントニオ猪木さんはプロレスラー現役時代にイスラム世界の英雄たちとも対戦、好試合をしており、イスラム世界では尊敬を受ける人物だったのです。

    そういった背景もあり、アントニオ猪木さんがイラクへ到着した際には「猪木がイラクに来た!」とテレビで報道され、イラク滞在中に朝のランニングをすればイラクの人達が笑顔でクラクションを鳴らしてくる程の歓迎ぶりだったようです。

    イラク滞在中はイラクの新聞社のインタビューがあったり、いろんな人が訪ねてきていろいろなところを案内してくれたりと様々なもてなしを受けたとアントニオ猪木さんは当時を振り返っています。

    そのように過ごしていたところイラクの要人サレハ議長と会見することが決まりました。

    アントニオ猪木さんはサレハ議長に「もし、奥さん方と一緒に来たらご主人は一緒に帰れますかね」と聞いたそうです。サレハ議長からは「そうであったらいいですね」と返事がありました。

    この一言がアントニオ猪木さんに人質家族を連れたイラクの再訪問を決心させました。

    《アントニオ猪木》湾岸戦争で人質解放!フセイン大統領の長男、暴君ウダイとの会談

    アントニオ猪木さんが会見した要人にはフセイン大統領の長男ウダイ氏もいました。ウダイ氏はこの頃スポーツ担当大臣をしていました。

    ウダイ氏はスポーツに関心が高かった人物だったとのことですので、アントニオ猪木という人物に対して尊敬の念を持っていたのかもしれませんね。

    会見でウダイ氏は話を真面目に聞いてくれたと、アントニオ猪木さんはインタビューで答えています。

    アントニオ猪木さんはその当時ウダイ氏が残虐な暴君であるという知識がない状態で会見を行っているので、その時の印象としては「紳士でちゃんと話し合いのできる人物だった」と評しています。

    この時「ウダイ氏ときちんと話し合いができた」のは「プロレスラー、アントニオ猪木」がそれまでに行ってきた功績によるところが大きいのではないでしょうか?

    その後アントニオ猪木さんはウダイ氏に関する映画を見て、こんな悪い奴だったのか!と驚いたとの事。

    ウダイ・サッダーム・フセイン

    イラクのフセイン元大統領の長男。両親に甘やかされて育ったことから、人格が大きくゆがんだと言われている

    高校時代から乱暴な性格で手に負えなかったとの同級生の証言がある。実弾入りの弾帯を巻いて登校していたこともよくあったという。

    自動車愛好家で高校時代、生徒の父兄が気に入った車を使用していると、護衛に奪い取らせたりしていた。

    スポーツへの関心は高く自ら「スポーツ復興」という雑誌を発行していた

    サッカーへの関心も強くサッカークラブも創設した。そのサッカークラブでは高い報酬、装備、食事、兵役免除などの特典があった。

    ウダイはイラクオリンピック委員長に任ぜられたこともあるが、成績不振のスポーツ選手に対して日常的な拷問を行い52人もの選手がそれにより命を落としたと言われている。

    その他にも婦女強姦、殺人など様々な事件を起こしている

    2003年7月22日潜伏中の邸宅でアメリカ軍との銃撃戦の末殺害された。

    ウダイの死亡の報を受け、多くのイラク国民が祝砲としていたるところで銃を発砲したとういう

    《アントニオ猪木》湾岸戦争で人質解放!外務省からの妨害

    アントニオ猪木さんのイラク訪問は多くの人々に支持されるものではありませんでした。外務省主導による人質解放交渉が遅々として進まないなか、アントニオ猪木さんは単独でイラクへ渡航していますが、実はそのイラク渡航に関して外務省から妨害がなされています。

    外務省はアントニオ猪木さんに対してイラク渡航をやめるよう説得をしていましたがそれをアントニオ猪木さんが拒否すると、今度は人質被害者家族に対して圧力をかけていきます。

    「いつ戦争が起こるか分からないし、日本政府としては責任を持てない。そんな所に行くことはまかりならん、もしどうしても猪木議員とイラクに行く場合は、……それはあなた方も含めて命の保証が無いという意味です」

    外務省としては日本人を守らなくてはならない、外務省はこのように家族会の説得を試みますが、被害者家族団「あやめ会」は動かない外務省ではなくアントニオ猪木さんに全てを託すことを決めました。

    その他の妨害として『平和とスポーツの祭典』イベントの為に航空会社へイラク出航の要請をしても外務省の圧力から打診したすべての航空会社が要請を拒否し、イラクへの直行便の計画は一時暗礁に乗り上げることもありました。

    それでも何としてもイラク渡航を実現しなくてはならないアントニオ猪木さんは駐日トルコ特命全権大使にトルコ航空でのバクダード入り協力を懇願します。

    その結果アントニオ猪木さんがチャーター機費用を全て負担することを条件に使用する約束を取り付ける事に成功し、トルコ大使の仲介によりトルコ航空の協力でバクダード入りすることに成功しました。

    実はアントニオ猪木さんは当時外務省から妨害されていたことに気づいていなかったようで、すべてが終わった後その事実を知ったようです。

    そんなことに気を遣っている暇はないし、ただ走ることに一生懸命だったからね。各企業が(人質になった人の)奥さん方に「今回は(救出に)参加しないように」とかFAXを入れていたと聞いたよ。

    根に持つでもなく飄々とインタビューに答えるアントニオ猪木さん。その人柄が垣間見えます。

    ちなみに外務省の当時の報告書にはアントニオ猪木さんのイラク渡航、イラク要人との交渉の件は記載されていません。

     このような事態に際し、政府は、これら日本人の一刻も早い解放と自由な出国を実現すべく、同じ立場にある他の諸国とも協力しつつ、現地大使館を通じイラク政府に対し日本人を含む在留外国人の無条件かつ即時の解放と出国の実現を強く要求するとともに、国連や赤十字国際委員会(ICRC)を通じて同国政府に働き掛けを行うなど、最大限の努力を行った。また、バグダッドに移動した後にイラク政府に拘束された日本人に対しては、現地の大使館を通じ食糧、医薬品、書物等の差入れ、留守家族との書簡のやりとりの援助など、可能な限りの措置を講じた。このほかにも政府は、短期の旅行者及び在留の日本人の安全確保のために様々な安全対策を講じた。

     この間、政党や民間においてもイラク政府に対し釈放を訴える様々な動きが行われた。

     イラクに対し外国人の出国を認めるよう求めた国連安保理決議664の採択を始めとして、国際社会が総意として外国人人質の解放を求めた結果、12月6日、フセイン・イラク大統領は人質の全員解放を発表するに至った。政府は出国を認められたイラク在留の日本人及び解放された日本人の帰国のため政府救援機を3便派遣した(9月に婦女子が解放された際に派遣した1便を含め救援機派遣は合計4便に上る)

    湾岸危機と日本の外交 第4節:外務省

    湾岸危機と日本の外交 第4節人質問題全文(外務省)

    《アントニオ猪木》湾岸戦争で人質解放!心強い協力者

    イラクの要人の会談を単独で渡航して実現したアントニオ猪木さんですが、実は強力な助っ人がイラクに居ました。

    それは当時、伊藤忠商事に勤務していた野崎和夫(のざき かずお)さん。野崎さんは当時イラク政府内に自身で開拓した独自ルートを持っていました。

    野崎さんはかなり当時イラク国内で顔の効く存在で日本の大使が入り込むことを禁止されている場所にさえ、「野崎はいい」と入り込むことが可能でした。アントニオ猪木さんから託されたフセイン大統領宛ての長い手紙を届ける事が可能な人物でもあったようです。

    人質解放の為に奔走するアントニオ猪木さんに、野崎さんは自分がイラク国内で築いてきたルートを駆使して協力しました。

    その他にも通訳を買って出てくれた人物など、体を張って動くアントニオ猪木さんにイラク現地にいた日本人たちが協力を惜しまなかった様子がうかがえます。

    《アントニオ猪木》湾岸戦争で人質解放!まとめ

    1990年12月7日に人質全員が解放されました。しかしその後もイラクはクウェート占領を継続したため、1991年1月17日アメリカ軍を中心とする多国籍軍はイラク攻撃をはじめ湾岸戦争は始まってしまいました。

    戦闘は1991年2月28日にアメリカのジョージ・ブッシュ大統領の停戦宣言により終結しまします。

    アントニオ猪木さんはイラクに渡航した時「人質解放」ではなく、まずは「友好」をテーマとしてイラク要人との会見に臨みました。最終的には「平和的に解決する」事を目標としていましたが、残念ながら戦争という形をもってイラクのクウェート侵攻は終結しました。

    それでも誰も人質解放の為にイラクを訪問するという事を行わない中、単独でイラクへ渡航し最終的にはフセイン大統領に人質を解放させた偉業は「アントニオ猪木」にしか成し遂げられなかった事ではないでしょうか。

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