【エルマー・マッカーディ】65年間アメリカ各地で興行していたミイラ

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投稿日:2023年11月1日 | 最終更新日:2023年11月1日

【エルマー・マッカーディ】65年間アメリカ各地で興行していたミイラ 死亡とその後の放浪

防腐処理をされ葬儀屋で展示されていたエルマー・マッカーディの遺体の画像

エルマー・マッカーディは10月4日の列車強盗後、その当時ねぐらにしていた友人の牧場の干し草小屋に戻り同じようにそこをねぐらにしている何人かと奪ったウイスキーで飲んだくれていたようです。エルマー・マッカーディはその頃、鉱山で働いた後にかかった結核と、軽度の肺炎旋毛虫症(線虫による感染症、下痢、腹部痙攣、筋肉痛、発熱などの症状があり、生肉や加熱不十分な状態の肉を食べると感染する)を患っていました。

そして1911年10月7日の早朝、3人の保安官が捜査犬を使い干し草小屋に潜んでいたエルマー・マッカーディを発見し、その夕刻7時ごろから銃撃戦が行われました。銃撃戦は1時間程行われたようです。最終的にエルマー・マッカーディは倒れた状態で胸に一発の銃創を受けて死亡しました。

死亡後、彼の遺体はどうなったのでしょうか?

エルマー・マッカーディの遺体はオクラホマ州の葬儀屋へ運ばれましたが引き取り手がいませんでした。この時遺体の所有者は葬儀屋のジョセフ・L・ジョンソンで、当時近親者が不明な遺体を長期保存していた方法でエルマー・マッカーディの遺体も防腐処理をし、顔を剃り、遺体にスーツを着せ葬儀場の裏で保存していました。しかし、エルマー・マッカーディの遺体は引き取り手がその後も現れず報酬が得られないとわかると、葬儀屋ジョンソンはマッカーディの遺体を展示して集金する事に決めました。

葬儀屋ジョンソンはエルマー・マッカーディの遺体に普段着を着せ、ライフルを片手に持たせ葬儀場の隅に立て、料金を支払う客に”The Bandit Who Wouldn’t Give Up(あきらめない強盗)”の鑑賞を許可しました。その結果”The Bandit Who Wouldn’t Give Up(あきらめない強盗)”は葬儀場の人気アトラクションとなり、遊園地のプロモーター達の注目を集めました。葬儀屋ジョンソンは何度もプロモーター達からマッカーディの遺体の売却のオファーを受けましたが全て断っていました。

しかし1916年10月、エルマー・マッカーディの長年行方不明の兄弟であるという”アーヴァー”と名乗る男から葬儀屋ジョンソンに連絡が入ります。”アーヴァー”は葬儀屋ジョンソンに連絡した時すでにオクラホマ州から遺体保管と埋葬の為サンフランシスコへ移動する許可を得ていました。

実はこの”アーヴァー”と名乗る男は移動遊園地『グレート・パターソン・カーニバル・ショー』のオーナー、ジェームズ・パターソンで、その弟チャールズ・パターソンと画策してエルマー・マッカーディの遺体を手に入れる計画を立てていたのです。

カーニバルオーナー ジェームスとチャールズ兄弟はエルマー・マッカーディの遺体をサンフランシスコ行の電車に乗せたふりをしてカンザス州アーカンザスシティ行きの列車に乗せ、まんまとエルマー・マッカーディの遺体を手に入れる事に成功しました。

それから6年間、エルマー・マッカーディの遺体は今度は”The Outlaw Who Would Never Be Captured Alive(生きたまま捕らえられることのない無法者)”として移動遊園地で展示されました。

移動遊園地で展示されてから6年後の1922年、カーニバルオーナー パターソン兄弟はルイ・ソニーという人物にエルマー・マッカーディの遺体を売却します。ルイ・ソニーは当時有名な無法者たちの蝋人形レプリカ展示をしていた巡回犯罪博物館でマッカーディの遺体の展示を行いました。

まだまだ、エルマー・マッカーディの遺体の放浪は続きます。

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