《牧野富太郎》日本の植物学の父!朝ドラ『らんまん』主人公・槙野万太郎のモデルってどんな人?

牧野富太郎人物像 エンタメ
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投稿日:2022年9月18日 | 最終更新日:2022年10月19日

2023年度前期朝ドラ「らんまん」の主人公のモデル「牧野富太郎」。神木隆之介さん扮する主人公植物学者の「槙野万太郎」、浜辺美波さん扮する万太郎を支える妻「寿恵子」の物語「らんまん」。モデル「牧野富太郎」はどんな人だったのか?人物像を調べてみた。

牧野富太郎はいつの時代の人?

江戸時代末期から昭和初期まで生きた超人

  • 生誕:1862年5月22日(文久2年4月24日)
  • 死没:1957年1月8日(昭和32年)
  • 出身地:土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)

なんと江戸末期に生まれ昭和中ごろまで活躍していた人物だった。没年齢は94歳

ちなみにペリーの黒船来航は1953年7月。牧野富太郎の生まれた1862年はアメリカでリンカーンが奴隷解放宣言していたり、ルイス・キャロルが少女達に『不思議の国のアリス』を即興で話していたり、ヴィクトル・ユゴーが小説『レ・ミゼラブル』発表していたり、日本では寺田屋事件が起こっていた頃である。

また土佐と言えば坂本龍馬だが、坂本龍馬が暗殺されたのは5年後の1967年近江屋事件である。

結局何をやった人なの?

素晴らしき植物オタク!

数多くの新種植物の発見と命名

牧野 富太郎が業績として現代に残したもの

  • 50万点もの植物標本や観察記録
  • 多数の新種植物の発見
  • 1500種類もの植物への命名
  • 植物研究に関する多数の著作物

日本の植物のほとんどが「雑草」として名もつけられていなかった時代、それを系統だててまとめ名をつけ、多くの図説を刊行した。まさしく日本の近代植物分類学の権威だ。それも野生植物だけでなく野菜や 観賞用の栽培植物など身近な植物すべてが興味の対象だった。その業績から「日本の植物学の父」と呼ばれている。

博士に一目にらまれると日本のどんな地方の植物でも、それが草の切れっぱし、葉の一片はおろかなこと、あの識別のもっとも至難とされているところの、ただの芽生えがあっただけで、その植物が何科の植物で、どんな性質のものか、いっぺんで正体が暴露されてしまうというんだから、俗な表現だが、まったく天才というのほかないよ。……

https://www.aozora.gr.jp/cards/001266/files/55789_52788.html

昭和十四年七月二十五日「東京朝日」の記事で牧野富太郎はこのように評されている。

実は小学校中退

牧野 富太郎は明治5年10歳から寺子屋へ通い、11歳からは多くの維新志士や偉人を輩出した「名教館」へ入り漢学や西洋流の地理・天文・物理を学んだ。

名教館はその後明治政府の廃藩置県・学制の発令で「佐川尋常小学校」となった。牧野 富太郎はそこへ入学したが2年で中退してしまう。

中退の理由は造り酒屋の跡取りだったので学問で身を立てる事を考えていなかったからとの事。小学校中退ではあるが、実は小学校に入る前に高等な学科は名教館で習っている。

中退後は好きな植物採集に明け暮れていたようだ。

15歳から臨時教員に

当時は「学校制度」の変遷期であり、児童の就学状況が大きく変動していた時期だった。学校へ来る児童数が増加する中、年配の教員が徐々にやめていき教員数が足りなくなっていた。その間に合わせに小学校卒業生を教員の代用にする「授業生」という臨時教員を2年程、牧野富太郎も声をかけられやっていたようだ。給料は月3円だったと富太郎は回想している。

その間も植物の採集、写生、観察などの研究を続けていたが、17歳の時高知師範学校の教師永沼小一郎を通じて欧米の植物学に触れ、当時の著名な学者の知己を得る。

その後は江戸時代の医薬学「本草学」学者編纂の「本草綱目啓蒙」に出会う。牧野富太郎はこの本を通じて植物には名前がある事に気づいたようだ。富太郎は昼夜を問わずこの本を引っ張り出して読み植物の名前を憶えていった。自身が観察してきた植物と本に記されている植物が一致しその名を知る。その行為に富太郎は没頭していった。

また同じころオランダの植物学の漢文訳本「植学啓原」とも出会う。この本を自身で仮名混じり文に翻訳し植物学を学び、その用語を会得したという。

日本全国を飛び回り植物採集

さらにいろいろな書物や顕微鏡が欲しくなりそれらを購入する為、明治十四年牧野富太郎は東京へ出かける。その当時高知から東京へ行くことは相当大変なことであるがその道中高知では見ない植物を採集していく。

東京滞在中、大学の植物教室に出入りするようになるのだが、これをきっかけに富太郎は東京と高知を行き来する生活が始まる。本人曰く「東京の生活が飽きると、私は郷里へ帰り、郷里の生活が退屈になると、また東京へ出るという具合に、私は郷里と東京との間を、大体一年毎に往復した」との事だが、とんだ道楽者である。

ここから富太郎の植物採集は高知のみでなく日本全国へ広がっていく。

恋女房

スエコ笹 写真

妻、寿衛子との出会いと結婚

朝ドラ「らんまん」で浜辺美波さんが扮する妻・寿恵子のモデル「寿衛子」との出会いはどのようなものだったのか。

明治17年、その当時牧野富太郎は理科大学(現東京大学理学部)で植物の研究に没頭していた。酒もたばこもやらない富太郎は菓子が大好物だったようだが、下宿から研究教室の道すがらにあった菓子屋の美しい娘に恋してしまった。

それが寿衛子である。富太郎は明治23年、人を介して無事寿衛子と結婚する。

「まるで道楽息子を一人抱えているようだ」

実は牧野富太郎は結婚した当時大学で研究してはいたが大学の教員とはなっておらず、実家の財産を食いつぶしながら植物の研究をしていた。しかし結婚した翌年にはもう財産は残り少なくなってしまっていたという。

その後東大の助手のポストにつくが月給は15円だった。ちなみに「近代日本医学の父」北里柴三郎は明治25年内務省に勤めていたが月給80円である。その当時の東京の大工の日当は50銭程度。

牧野富太郎が東大の助手に就任したころから、牧野夫妻には毎年のように子どもが生まれている。結局二人の間にできた子供は13人成人できたのはそのうち7人だったが、月給15円では生活が賄えず、高利貸しに借金をしてしまう。

牧野富太郎は生活苦から人生で何度も多額の借金を背負うのだがその度に周りの知人や友人に救済されている。人柄もあったと思うが、何よりも富太郎の研究成果が相当に多くの人に期待されていたことの証左だろう。

妻、寿衛子は借金取りが来ても口実をつけて追い払いうなどしていたようだ。また、何人目かのお産の後まだ三日目であるにもかかわらず遠路はるばる徒歩で借金取りのところまで行き断りをいれたこともあったという。

そして自身はそんな時でも部屋の奥で植物の標本をいじっていたと富太郎は述懐している。

寿衛子は常日頃富太郎のことを「まるで道楽息子を一人抱えているようだ」とよく冗談で言っていたという。富太郎は自叙伝の中で自分は植物の研究に没頭していて寿衛子に良い着物一枚買う事も、芝居一つにも連れて行ってやれなかったが、寿衛子は嫌な顔を一つもせず、一言も不平を言わず、ただ富太郎を激励し陰日向に尽くしてくれたと、そしてそれがあったからこそ終生植物の研究に尽力できたのだと妻、寿衛子への多大な感謝と愛情をつづっている。

永遠に残した愛妻の名前

都会では火事が多いのでせっかく苦労して集めた植物標本などがいつ灰と化してしまうかわからない。だから絶対に火事のないところへという妻、寿衛子の意見から牧野夫妻は東大泉の雑木林の真ん中に小さな一軒家を建てた。寿衛子は将来集めた標本の展示を中心とした植物園を東大泉に作る事を夢見ており、牧野富太郎も張り切って植物の採集に没頭した。

しかし残念ながら家ができて喜ぶ間もなく寿衛子は原因不明の病で亡くなってしまう。昭和3年、享年55歳だった。その当時牧野富太郎は竹の研究に凝っていた。ちょうど仙台で新種の笹を発見しそれを持ってきていたので富太郎はその笹に愛しい妻の名をつけて「スエコ笹」とし、永遠にその名を世に遺した。寿衛子の墓碑には富太郎の詠んだ句

「家守りし妻の恵みやわが学び世の中のあらん限りやスエコ笹」

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が刻まれている。

大学と牧野富太郎

牧野富太郎博士 線画

理学博士の許可を得て植物学教室に出入りするように

明治20年頃から牧野富太郎は理科大学(現東京大学理学部)へ出入りし始めたが、実は学生でもなく、ただ一介の書生として当時の植物学教室教授矢田部良吉の許可を得て出入りしていただけだった。しかし教室の書物も標本も自由に閲覧してよいという学生と同様の待遇であり、その中で植物研究を行っていた。

植物学の知識を蓄積する中で牧野富太郎は日本にはまだ日本の植物の総目録がないことに気づき、それは植物分類学研究者の手によって作り上げなくてはならないものだと確信し出版を決意する。その書籍を作るための植物図解を描くことは相当に自信があったようだが、それを印刷する為の印刷術も一通り知っておかなければ不自由だと考え神田の石版印刷屋で一年程印刷術の練習をしている。そして自費にて「日本植物志図篇」を作成した。

この「日本植物志図篇」の6巻を発刊した後、矢田部が自分も同様のものを編纂するのでという理由から教室への出入り、資料の閲覧を禁止されてしまう。

理科大学助手に就任

牧野富太郎は矢田部の理不尽な仕打ちに逆に奮起し当時日本では誰もやっていなかった新種植物の学名付けを行い、欧文の記載を添えそれを書中に載せ『日本植物志図篇』を続刊する。

矢田部は明治24年大学から罷免されるのだが、その翌年東京大学から牧野富太郎あてに大学での勤務の要請があり、明治26年助手として植物学教室に勤務することとなる。その後47年後の昭和14年、78歳の年まで講師として大学に在籍した。牧野富太郎は自叙伝にこう記している

誠に不思議なもので小学校も半分しかやらず、その後何処の学校へも這入らず、何の学歴も持たぬ私がポッカリ民間から最高学府の大学助手になり、講師になり、後には遂に博士の学位迄も頂戴したとは実にウソのようなマコトで実に世は様々、何がどうなるか判ったもんでは無い。

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大学退官の後

大学を退いた後、牧野富太郎はこれからの二つの大仕事として膨大な量の標本の整理と「日本植物図説」の刊行をあげている。本人は90歳ごろまで日本全国を飛び回り植物の採集を行っていたようだ。山に出かけられなくなっても庭に移植した植物を採集したり、標本を整理していたという。

病床につく93歳まで精力的に植物の研究や書物の編纂を続けたエピソードも多く残っているようだ。

牧野富太郎自叙伝 第一部の最後は92歳の時に書いた文章で閉じられている。その文章に老いは見られない。その中で92歳になった今でもなお前途にまだまだ望みを持って己の仕事を成し遂げる為日夜勤しんでいると書き残している。

牧野富太郎の人生

私は植物を研究しているとあえて厭きる事がない。故に朝から晩まで何かしら植物に触れている。

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牧野富太郎の人生は92歳の時に記したこの言葉が全てだろう。裏山に上って植物を採ったり観察したりする、それが「遊び」であった幼少期。その「遊び」を飽きることなく死ぬまで続けることのできたまさしく稀有な幸せな人生であったのではないだろうか?

おわりに

牧野富太郎という人物の資料を調べている内にすっかり牧野富太郎のファンになってしまった。大学講師という立場とは到底信じられない程の業績を残し、海外からの評価も高い人物を今知る事ができた事はとてもラッキーだった。

この素晴らしく可愛らしく、そして頑固でどうしようもない、そんな牧野富太郎の人生を神木隆之介さんと浜辺美波さんがどう演技し表現してくれるのか、今から2023年の春が待ち遠しくてしょうがない。

参考

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